東京高等裁判所 平成8年(ネ)4844号 判決 1999年3月30日
主文
原判決を次のとおり変更する。
一 控訴人日本放送協会及び控訴人仁平雅夫は、被控訴人に対し、連帯して金六〇万円及びこれに対する平成二年一〇月一八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。
二 被控訴人のその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを一〇分し、その九を被控訴人の負担、その余を控訴人日本放送協会及び控訴人仁平雅夫の負担とする。
事実及び理由
第一 控訴人らが求める裁判
「原判決中、控訴人ら敗訴の部分を取り消す。右敗訴部分に係る被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決
第二 当事者の主張
左記のとおり付加するほか、原判決摘示(四頁八行ないし一七六頁六行。別紙目録四、五を含む。)のとおりであるから、これを引用する。
一 控訴人らの主張
1 本件プロローグに係る著作者人格権及び著作権の侵害について
原判決は、本件ナレーションは、本件プロローグの基本的な骨子となる部分のみを同じ順序で表現しているものであり、外面的な表現形式においても基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く、本件プロローグにおける表現形式上の本質的特徴を直接感得することができる旨判断している(二一五頁六行ないし一〇行)。
しかしながら、江差追分を、江差町の過去の繁栄と現在の衰退とに関連付けて説明することは、極めて一般的に行われているところである。
そして、本件プロローグは、江差追分全国大会についての特定の思想又は感情を極めて創作的な美文調で表現したものである。これに対して、本件ナレーションは、江差追分全国大会の説明としては必要にして最小限の客観的な事実のみで構成されており、特定の思想又は感情の創作的な表現は全く含んでいない。したがって、本件ナレーションから、本件プロローグの創作的な表現を感じ取ることは不可能であるから、本件ナレーションは本件プロローグを翻案したものであるとする原判決の判断は、誤りである。
2 被控訴人に対する社会的評価について
原判決は、被控訴人は、本件小説の読者あるいは北海道を中心とした江差追分に関心を持つ人々から、江差追分の研究家として、そして、独創的な虚構である追分節ウラル源流説を提示した小説の著者として、高い評価を受けていた旨判断している(二七六頁六行ないし二七七頁一行)。
しかしながら、江差追分は、古くから多くの民謡研究者によって研究され、最近では、町田佳声らの専門家による精密な考証が行われているのであって、被控訴人が江差追分の研究家として特に高い評価を受けていた事実はない。
また、本件小説には追分節ウラル源流説は記載されておらず、強いていえば、追分節の起源はモンゴルを中心とする中国北部、あるいはハンガリーに求められることが表現されているにすぎない。このことは、原判決が援用する本件番組の視聴者らの控訴人NHKに対する抗議の手紙が、いずれも、本件番組が追分節の起源をユーラシア大陸のいずれかに求めるとの発想を本件小説から得たと考えられることを問題としており、それをウラル地方に求めるとの発想を本件小説から得たと考えられることを特に問題にしていないことからも明らかというべきである。
そして、追分節モンゴル源流説が本件小説の刊行前に一般的知見となっていた以上、追分節はハンガリーから東へ騎行したフン族の王子によって日本にもたらされたという本件小説のモチーフは、右知見の文学的な一変形にすぎず、何ら独創的なものではない。したがって、被控訴人が追分節ウラル源流説を提示した著者として高い評価を受けていた旨の原判決の判断も、誤りである。
3 いわゆる間接的名誉毀損行為と表現の自由について
原判決は、他人の氏名等を直接名指ししない間接的な表現行為によって他人の名誉を毀損する結果を生じたときは、表現者において、当該表現行為により他人の名誉を毀損する結果を生ずることについて故意があったと認めうる場合か、そのような結果になることが予見可能であったと認めうる特別な事情がある場合に限り、表現者の名誉毀損行為について故意ないし過失責任を認めることができるという趣旨の判断を説示している(三八六頁七行ないし三八七頁三行)。
しかしながら、結果の予見可能性があったにすぎない場合にまで名誉毀損の成立を認めることは、表現の自由に対する重大な制約となる危険がある。特に、表現行為の前に他人からクレームがあると、表現者は常に間接的名誉毀損の故意、あるいは予見可能性があったと判断される危険を負うことになり、その結果、表現者は表現行為を躊躇し、場合によっては表現行為を断念することもありうるから、原判決の右説示は、表現の自由の観点からとうてい是認することができないものである。
二 被控訴人の主張
1 本件プロローグに係る著作者人格権及び著作権の侵害について
控訴人らは、本件プロローグが江差追分全国大会についての特定の思想又は感情に基づいて極めて創作的な美文調で表現したものであるのに対して、本件ナレーションは、江差追分全国大会の説明としては必要にして最小限の客観的な事実のみで構成されており、特定の思想又は感情の創作的な表現は全く含んでいない旨主張する。
しかしながら、江差追分全国大会を「一年の絶頂」と捉え、これと江差町の過去の繁栄とを重ね合わせる本件プロローグの独創的な表現は、同大会を「年に一度(中略)の賑い」と捉え、これと江差町の過去の繁栄とを重ね合わせている本件ナレーションの表現にそのまま踏襲されているから、控訴人らの右主張は失当である。
なお、控訴人らが援用する乙第一九七号証には、著作権(翻案権)の侵害が成立するためには、著作物を翻案して作出した二次的表現物が著作物性を持たなければならない旨の意見の記載が存在する。
しかしながら、右の記載は、著作物を翻案して作出した二次的表現物について著作権が成立するか否かの問題と、二次的表現物を作出することが翻案権の侵害になるか否かの問題を混同したものである。すなわち、前者の場合は、二次的表現物が著作物性を有しなければならないことは当然であるが、後者の場合は、二次的表現物が著作物性を有しないときであっても、その二次的表現物が著作物を翻案したものと認められる以上は、翻案権の侵害が成立するのである。
2 被控訴人に対する社会的評価について
控訴人らは、本件小説には追分節ウラル源流説は記載されておらず、追分節の起源はモンゴルを中心とする中国北部、あるいはハンガリーに求められることが表現されているにすぎない旨主張する。
しかしながら、通常の理解力を持つ読者ならば、本件小説に追分節ウラル源流説が表現されていることを読み取ることができるから、控訴人らの右主張は失当である。なお、法律によって保護される名誉には、いわゆる虚名も含まれるから、被控訴人に対する追分節ウラル源流説を提示した著者としての評価が仮に事実に反するとしても、みだりにこれを毀損することは許されない。
3 いわゆる間接的名誉毀損行為と表現の自由について
控訴人らは、いわゆる間接的名誉毀損行為について、結果の予見可能性があったにすぎない場合にまで名誉毀損の成立を認めることは表現の自由に対する制約となる危険がある旨主張する。
しかしながら、表現行為については、いわゆる真実性の法理、あるいは公正な論評の法理等が認められており、これらの法理に適合する限り、表現の自由は確保される。そして、表現の自由が常に名誉権の保護に優先する理由はないから、控訴人らの右主張は失当である。
理由
第一 本件プロローグに係る著作者人格権及び著作権の侵害について
当裁判所も、原判決と同じく、本件プロローグは著作物性を有しており、本件ナレーションの製作・放送は、被控訴人が本件プロローグについて専有する氏名表示権、翻案権及び放送権を侵害するものであって、控訴人NHK及び控訴人仁平は、被控訴人が被った損害を賠償する責任を負うべきものと判断する。その理由は、原判決の理由説示(一九六頁五行ないし二二三頁一〇行)のとおりであるから、これを引用する。この判断に反する乙第一九七号証の記載内容は、採用することができない。
この点について、控訴人らは、本件ナレーションは江差追分全国大会の説明としては必要にして最小限の客観的事実のみで構成されており、本件プロローグの特定の思想又は感情の創作的な表現を感じ取ることは不可能である旨主張する。
しかしながら、江差追分全国大会を「年に一度(中略)の賑い」と捉え、これを、江差町の過去の繁栄(すなわち、「かつての賑い」)と対比して構成されている本件ナレーションの表現は、本件プロローグの江差追分全国大会に対する深い思いに基づく思想又は感情の創作的な表現を直ちに感知させるものであって、単なる客観的事実の説明とはいえないから、控訴人らの右主張も、採用することができない。
なお、控訴人らの右行為によって被控訴人が被った損害を賠償すべき金額は、原判決の理由説示(四〇六頁一一行ないし四〇八頁一行)のとおり、金六〇万円とするのが相当である。
第二 被控訴人に対する社会的評価とその毀損について
原判決は、被控訴人は、本件小説等の読者あるいは北海道を中心とする江差追分に関心を持つ人々から、江差追分の研究家及び独創的な虚構である追分節ウラル源流説を提示した者として、高い評価を受けていた旨判断している(二七六頁六行ないし二七七頁一行)。
これに対して、控訴人らは、被控訴人がそのような社会的評価を受けていた事実はない旨主張するので、以下検討する。
一 当裁判所も、原判決と同じく、被控訴人は江差追分の研究家として一定の社会的評価を受けていたものと判断する。その理由は、原判決の理由説示(二二四頁一一行ないし二三〇頁五行)のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決は、本件番組の内容が、被控訴人の追分節ウラル源流説の提唱者としての社会的評価を低下させたことを、被控訴人の本訴請求を一部認容する理由としているのであって、江差追分の研究家としての社会的評価を低下させたことを理由とするものではない。)。
また、当裁判所は、本件小説には、原判決の説示(二三二頁五行ないし二六五頁七行)のとおり、かなり理解しにくい形ながら、追分節ウラル源流説が表現されているものと判断する。この判断に反する乙第一五七号証の記載内容は、採用することができない。
そして、本件小説が相当の関心をもって読者らに受け入れられたことは、原判決の理由説示(二七一頁一〇行ないし二七五頁一一行)のとおりであると認めることができる。
二 しかしながら、本件小説によって被控訴人が得た社会的評価は、追分節は日本の一地方に独自の民謡ではなく、その起源を遠くユーラシア大陸の深奥部に求めることができることを、小説の形で初めて提唱した者としての評価であって、被控訴人主張のように、追分節ウラル源流説の提唱者としての評価ではないと考えざるをえない。その理由は、次のとおりである。
1 まず、本件小説を一般の読者の普通の注意と読み方に従って読んだ場合、本件小説には、追分節ウラル源流説が明確な形で表現されているわけではなく、かなり理解しにくい形でのみ表現されているものと認められ、右認定の事実によると、本件小説の読者の多くは、原判決のいう追分節ウラル源流説を正確に読み取ることができるものと認めることはできない。また、本件小説の興趣は、追分節の源流がウラルであることによってのみ、引き起こされるものでもない。本件小説を通読してみると、本件小説の読者らは、追分節の起源がユーラシア大陸の深奥部に求められることにこそ斬新な興味を感じるものと認められるのであって、読者らにとって、その深奥部が「ウラル」であるか、それ以外の地であるかには、さして注意を引くものがないと認められる。現に、甲第三二、三三号証及び乙第一六号証の一ないし三によれば、本件小説の書評、あるいは、本件番組の視聴者らの控訴人NHKに対する抗議の手紙は、いずれも、被控訴人が追分節の起源を、ユーラシア大陸の他の地域(例えば、モンゴル)ではなく、「ウラル」に求めた点には、何の関心も示していないことが認められるのである。
なお、甲第八六号証によれば、「交通新聞」平成三年八月二九日号二面の「季節の散歩道」と題する囲み記事には、「北海道の江差追分とハンガリーの葬送歌とがユーラシア大陸の奥地をオリジンとしてテレ、コネクションしているという話(「ブタペスト悲歌」木内宏著、新潮社)を思いだした。(中略)はるか千数百年もさかのぼる民族の大移動で四方に移動し、そこで悠久な時を刻みながら当時からの悲歌が点々として現在に残っている。ウラル地方をオリジンとしてあたかもテレコネクションのように数千キロ、一万キロ余りを跳躍して伝わったように見える。」との記載があることが認められるが、この記事においても、追分節の起源がユーラシア大陸の深奥部に求められることが興味の中心であって、その深奥部が「ウラル」であるか否かはさして重要なこととされていないことが明らかである。
以上のとおりであるから、本件小説によって被控訴人が得た社会的評価は、追分節ウラル源流説の提唱者としての評価ではなく、追分節の起源はユーラシア大陸の深奥部に求めることができることを初めて小説の形で提唱した者としての評価であると解するのが相当である。
2 しかるに、追分節の起源はユーラシア大陸の深奥部に求めることができるとの学術的知識は、原判決説示(二六五頁一〇行ないし二六九頁六行)のとおり、本件小説の刊行より相当以前から、音楽研究家等を中心として、広く知られていたことが認められる。
更に付言すると、
a 乙第四〇号証によれば、柴田南雄著「日本の音を聴く」(青土社昭和六二年一一月一〇日発行)には、「おそらく小泉文夫さんの話から(中略)、モンゴルのオルティンドー(長歌)が追分節とじつによく似ていて、おそらく両者はルーツを同じくする歌であろうということはすでに当時も知っていた。(中略)このことは、追分節がたんに日本の古い民謡という以上に、中央アジアの広大な天地とのつながりを暗示する旋律で、その点からもかけがえのない資料と思われた。」(二二六頁七行ないし一二行)と記載されていることが認められる。
b 乙第四五号証によれば、藤井知昭著「民族音楽の旅」(株式会社講談社昭和五五年二月二〇日発行)には、「パミールやチベットで歌われる馬追い歌を聴くと、日本の馬子唄や追分けときわめて類似し、この流れは、モンゴールにも及んでいる。」(六一頁三行ないし五行)、「(モンゴール)の民謡が、チベットの歌にきわめて近く、民謡の一種、長歌は日本の追分けや馬子歌とも同じ系統であることを再確認したのだった。戦時中、モンゴールに滞在した人々から、日本の馬子唄とそっくりな歌があることは以前から聞き知っていたし、ハンガリーなどで出版されたモンゴール民謡のレコードなどでも調べていたからである。」(一八二頁一四行ないし一八三頁三行)と記載されていることが認められる。
c 乙第九〇号証によれば、館和夫著「江差追分物語」(北海道新聞社平成元年二月二八日発行)には、「長尾真道氏が(中略)昭和四十年代の初め頃、学会発表という形で新説を発表しておられる。長尾氏の説は、現今の「追分節」の大部分は、小室節(または小諸節)に由来するというもので、またその小室節は大陸のモンゴル系歌謡に由来しているという。つまり、往古、大陸から馬産技術者として渡来した帰化人が、オルテインドゥーとよばれるモンゴル系の、息を長くひいてうたう唄を伝え、それが今日、国内の各地に伝わる追分節の元唄である小室節になった、というのである(中略)。その根拠として、氏は追分節の曲調が非常にモンゴルの唄(とくに「駿馬の曲」(中略))に似ていること、その唄が小諸地方から朝廷に対して数百年間も続けられた貢馬の行列の道中唄として(中略)唄い継がれてきたこと(中略)をあげておられる。」(八二頁五行ないし八三頁一行)と記載されていることが認められる。
d 乙第一三九号証によれば、脇哲著「江差追分」(北海道テレビ放送昭和五八年五月五日発行)には、「江差追分の故郷はモンゴルか」と題して、「アジアとヨーロッパを連鎖する音楽文化圏に着目している音楽専門家は決して少なくはないのだ。たとえば作曲家の広瀬量平氏、服部竜太郎氏。東京芸大小泉文夫教授。(中略)広瀬氏は、(中略)モンゴル民謡「美しい草原」を中心に、チベット民謡「牛革の唄」「馬の鞍」(中略)などの曲と、追分節とをつなぐ回路の検索にとりかかっている最中だった。小泉教授はいう。「日本、ハンガリー、トルコをつなぐ音楽文化圏の基本音階はラドレミソラの五音階です。(中略)そのメロディーは、追分節にも(中略)つながっているんですが、音の構造が(中略)ハンガリー民謡と同一のものであることがわかりました」さらに、(中略)札幌大谷短大木村雅信助教授は「ソ連に旅行した時、ウラル地方でタタール族の民族音楽の楽譜を入手しました。その中に江差追分そっくりの曲があったんです」(二八頁八行ないし三〇頁一行)と記載されていることが認められる。
e 乙第一六五号証の一、二によれば、昭和五八年二月一一日にNHK総合テレビにおいて放送された「特集・音楽の広場(音楽はじまり物語)」において、東京芸術大学名誉教授の吉田雅夫が、江差追分はモンゴルから渡来した音楽である旨の発言をしたことが認められる。
f 乙第二〇二号証によれば、江差追分会編「江差追分」(江差追分会昭和五七年四月二三日発行)には、「長尾氏は(中略)、古くから蒙古の地に伝わるオルテインドゥー(息を長くひいて唄う唄)の一種に今日の追分節の曲節に酷似する「駿馬の曲」というものがあることに着目し、つぎのような雄大な構想の仮説を立てたのである。すなわち、古代わが国に大陸産の貢馬と共に来朝した馬産技術者が、当時、東国一の馬産地として知られた小諸地方に定着し、子孫に伝えられた曲が今日各地に伝わる追分節の源流をなしたという。」(一七頁二行ないし七行)と記載されていることが認められる。
g 乙第二〇八号証によれば、小泉文夫著「小泉文夫フィールドワーク」(冬樹社昭和五九年一〇月一〇日発行)の二一六頁ないし二二三頁には、拍子の不明確ないわゆる追分様式の民謡はモンゴルの歌に酷似しており、その流れはハンガリーまで辿りうることが記載されていることが認められる。
3 そうすると、本件小説によって被控訴人が得たと考えられる社会的評価、すなわち、追分節の起源はユーラシア大陸の深奥部に求められることを初めて提唱した者としての評価は、前記のような追分節の起源に関する学術的知識に照らし、特に、控訴人の社会的評価として確立しているものとは認められない。
三 原判決は、控訴人らは北海道で本件番組を放送したことにより、主として北海道において、被控訴人の本件小説における追分節のルーツについての独創的虚構を高く評価している人々との関係で、被控訴人に対する社会的評価を低下させたものであり、被控訴人の名誉を毀損した旨判断している(三七七頁一行ないし五行)。
しかしながら、被控訴人が本件小説によって得た社会的評価は、前記のとおりである。
一方、本件番組が、追分節の起源はユーラシア大陸の深奥部に求めることができるとの前記学術的知識を基礎として創作されたものであることは、原判決認定の本件番組の内容(三六頁五行ないし五〇頁三行)からみて疑いの余地がない。そして、ユーラシア大陸がアジアとヨーロッパの二大陸とからなり、この二つの大陸を分かつのがウラル山脈であることを考えれば、「ユーラシア大陸の深奥部」としてウラル地方を想定することはある程度必然的であったと考えることができ、この想定が、本件小説の表現に依拠して初めて得られたものと認めるべき合理的な理由は全く存在しない。
ちなみに、本件小説において、もっとも創作性が認められるべき思想又は感情は、いうまでもなく、フン族の王子の「チャバ」なる者が、五世紀末ころ、ハンガリーから幾多の民族を合流しつつ東へ騎行して日本に追分節をもたらし、また、その末裔が大和民族と闘ったという、極めて特異なプロットであるが、本件番組に、そのような特異なプロットを想起させる表現が存在しないことは、前認定の本件番組の内容からみて明らかである。
したがって、被控訴人あるいは本件小説について何らの言及もされず、まして、被控訴人を誹謗中傷するような表現が、間接的にせよ全く存在しない本件番組の放送をもって、被控訴人の名誉を侵害する違法なものということはとうていできない。このことは、控訴人布川のした本件返書の送付行為についても、同様というべきである。
第三 以上のとおりであるから、原判決のうち、本件プロローグの著作者人格権等の侵害を理由として、控訴人NHKほか一名に対し連帯して金六〇万円とこれに対する遅延損害金の支払いを命じた部分は相当であるが、被控訴人の名誉の侵害を理由として控訴人NHKほか二名に対し連帯して金一八〇万円とこれに対する遅延損害金の支払いを命じた部分は、失当として取り消すべきものである。
よって、控訴人らの本件控訴は、一部理由があるから、原判決を本判決の主文掲記のとおり変更することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法六七条、六四条、六五条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成一〇年一〇月一日)